MANSAI◎解体新書 その拾伍
「ことば」~生命体としての存在論(オントロジー)~
2009年10月27日(火)19:00~ 於:世田谷パブリックシアター
企画・出演:野村萬斎(世田谷パブリックシアター芸術監督)
出演:穂村弘(ほむら・ひろし) 歌人
春日武彦(かすが・たけひこ) 精神科医・作家
(例によってメモ取りがかなりあやふやです。お三方が言った通りの言葉になっていない・自分で意訳したところも多々ありますので後ほど間違い・勘違いをご指摘いただければ幸いです。ぼっこり抜けているところもあるかと思われますのでそこもよろしく)
名物企画(笑)『MANSAI◎解体新書』もいよいよ15回目。10回記念のコロッケさんゲストからもう随分経ったんですねぇ。今回も通常の"解体ルック"で登場の芸術監督ドノ「今回は毎度恒例のパフォーマンス(例によって"パァ~フォ~マンス"と独特の発音・笑)はやりません!(確かに足元はバレエシューズではなく革靴)"ことば"に集中して進めていきたい」とのことでした。
続いて今回のゲストである歌人・穂村弘さんと精神科医で作家の春日武彦さんが登場。お二人の略歴を紹介したあといよいよ本題に。
(以下、芸術監督ドノ=「萬」、穂村さん=「穂」、春日先生=「春」、と表記します)
【萬】自分にとって"ことば"とはそのまま"台詞"の意味になる。「覚えなければいけない!」という恐怖心に駆られる(笑)。また、その台詞を駆使して皆さんを喜ばせている。相手(客)とのコミュニケーション・ツール。
【穂】ことばをコミュニケーションとするのは日常的なレベルの意識。"お金"と似ている。例えば「ここに千円あります」としたら、「紙幣が1枚」「銀(100円玉)が10枚」「アルミ(1円玉)が1000枚」とかいろいろ考えられるが、これらを日常ではそれぞれ"違う"とは思わない。あくまで千円という価値・記号としてのお金。しかし、その記号性が破れた時に別の意味が生じる。例えば「ギザ10(ぎざじゅう)」ってありますよね?
【萬】…いや、知らないです(会場「えーっ?!」・笑)…。
【穂】(笑)10円玉の横にギザギザが刻んであるヤツです。レアだと言われる(ココで芸術監督ドノ気付く・笑)んで必死に見つけて集めたりした。あるいは二千円札をもらうと有難がるとか、または自分の生まれ年…自分の場合昭和37年だけど…のコインを集めて喜んだりとか、そういうことをするのは子供や、大人だったらちょっとアブナイ人(笑)。お金を単なる記号として見ている人は健全だと思う。確かにお金に記号以上の意味を持たせている人はアブナイというか怖いというのはあるけれど(苦笑)、でもそういう観点を持つことに寄って生き生きとしてたり幸せだったりしている。「これってギザ10じゃん!」と叫ぶことで自分の中に、単なる記号を破った意味を創ることが出来る。これこそ詩人や歌人が求めているものなのだ、と。
【春】自分が日ごろ思うに、ことばとは"曖昧"で"不正確"だと。このようなもので良くコミュニケーションが取れるなぁと思う(笑)。多分、それらを裏で支えているのは、そのことばの勢いや文脈や、意思を通じ合う者同士のなれあいとかではないか。しかし、精神を病んでしまうとこの裏で支えているモノが機能しなくなってししまう。
(スクリーン:資料No.39)「私はスイスだ」(患者の言葉。ミンコフスキー『精神分裂病』より)
【春】これは「スイス」が永世中立国として一種の"自由の象徴"と認識されて発せられた言葉だが、本人は「自由になりたい」とか「スイスに行って自由になりたい」と言いたいのだろうけど、文としての構造が壊れて常識的なつながりが無くなってしまっている例。
(スクリーン:短歌について)「一行のことばの連なりで、世界が開示出来る」
【萬】短歌という"かたち(定型)"の中での表現。ルールの中での表現ということでは狂言(古典)と同類。
【穂】その定型の中でどうやって記号を破っていくか。例えば「二千円札はキャラメルの匂いがする」と言ったら…それはアブナイ人・キモい人か詩人(大笑)。映画『羊たちの沈黙』のレクター博士のような…これは春日先生の管轄のお話でしょうが(笑)。危険だけど生き生きとしている。
(スクリーン:資料No.1)「あっ今日は老人ホームに行く日なり支度して待つ迎えの車」(相澤キヨ)
【穂】この「あっ」というところが魅力(笑)。ここを例えば「火曜日は」などにすると言葉が記号化されて魅力が無くなる。社会性が強くなってしまう。
【萬】じゃあ「えっ」ならどうなりますか(笑)?
【穂】それでも良いです(笑)。社会性の無い「怖い人」になりたくないと思ってしまうと、ここの「あっ」を記号化したものに変えてしまう。「あっ」という表現が"破れて"いるから良いんです。
(スクリーン:資料No.2)「最期には納得できず死んで行く和牛たちよ今年は干支だ」(二宮正博)
【穂】「今年は干支だ」と、最後に和牛たちを励ましてるんですね(爆笑)。社会的には間違った励まし(笑)。干支は人間が勝手に考えたものだから。社会的には二重三重に間違っていても良い短歌だと思う。
【萬】牛丼喰いながらのシチュエーションだったりして(笑)。
(スクリーン:資料No.3)「蓋とらば鰻あるらむ鰻重の蓋とるまでのこの不安感」(村田一広)
【穂】コレはもう全体が「ギザ10」(笑)。全体が不安感に支配されている。社会的に「鰻重に鰻が入っている」のは当たり前。海老天丼なら蓋の外にシッポが覗いてるから不安が無いけど(笑)。社会的に「当たり前」であるところに不安を見出しているのが凄い。
【萬】短歌は五七五七七という制約の中。
【穂】短歌として型の中にあるから説得力がある。先ほど春日先生が出された「私はスイスだ」の途方もない怖さとは違う。自分は「短歌」という制約の中で表現していなければ今頃は精神を病んでいたと思う(笑)。
【萬】「私はスイスだ」の中に何か隠れているのでは?わざと隠しているので中身を探りたくなる?
【穂】型や象徴性をピンポイントで表現しているのでそう感じるのでは。
(スクリーン:資料No.4)「床屋では気づかなかったもみあげの長さが左右揃っていない」(船山登)
【穂】その場に居ても人間の判断はいい加減という(笑)。床屋の鏡でちゃんと見ていたはずなのに。人間の判断力が所詮この程度なら、結婚や家を買うなんて到底怖くて出来ない。膨大な情報の前で呆然とする人間の姿をこの歌から感じる(笑)。
【春】ある患者に、「先生、この本の中には実は宇宙の秘密が全て入っているんです」と声をかけられた。彼はこの一行で全てを表そうとしているのだが結果負けているように思う。逆により"記号"の方に向かってしまっていて、そうしないと不安なんだろう。破れた「無防備さ」は逆に強くないと出せないのではないか。
(スクリーン:資料No.6)「買い物に出でしそのまま置き去りにされはしないかちかごろ思う」(林達夫)
【穂】これは旦那さんが奥さんに置いていかれてるんでしょうね。
【萬】奥さんだけ買い物に行って旦那さんが留守番なのか、それとも買い物先で奥さんだけズンズン先に行ってしまって、旦那さんがぽつんと取り残されてるのか(笑)。いずれにせよ、まるで姥捨て山のよう。
【穂】「姥捨て山」と感じるのは、萬斎さんの頭の中に和歌のイメージがあるからでしょうね。
【萬】五七調というのは音の数を合わせるので音楽的な要素がある。
【穂】アジア圏にそういう共通性があるかも。五と七には音の魔力があって、戦前・戦中にはその五七調で戦歌が作られた。五七調はテンションが上がるので。なので戦後にはそのリズム自体が否定されてしまったが。
【萬】今の短歌の詠み方は"朗誦"ではないですよね?戦後の揺り返しだろうか?「そんなに散文化しちゃって良いの?」とも思う。
【春】調子が良いからと言って、必ずしも心に残るとは限らない。
【萬】意外に抜けて行くんですよね。
【萬】「漁に出ると演歌を歌いたくなる」というが(笑)?演歌も五七(七五)調だが?やはりテンションがあがるから?
【種】実はそれが怖い(笑)。昔から人が死ぬと短歌で送ったり、天災が起こると短歌で悲嘆を示したりする。ネガティブなことへのテンションが短歌であらわされることが多い。だから、逆に物事が上手く運んでいる人は俳句の方を詠む(笑)。政治家とか、社長さんとか。
【萬】字数の違い(短歌:五七五七七、俳句:五七五)になにか関係しているんでしょうか。
(スクリーン:「いろいろなことば(~なことば、が多数羅列してある)」
【穂】例えば"偶然なことば"として…
(スクリーン:資料No.40)「人生には関係ない」(ヨツアナカシパンについての、百科事典の説明の結語)
【春】ヨツアナカシパンとはウニの一種で、食べられるわけでもないので人間にとって特に益の無い生き物(笑)。そこを「人生には関係ない」と締めくくっている。これは逆に見れば「人間の知らない(関知しない)ところで様々なことが起こっている」ということ。世界は無限である、と(笑)。
(同じく資料No.40)「私を捨てないで下さい」(ゴミと間違えられかねない木片の手製ドア・ストッパーに直接マジックで書かれていた言葉)
【春】これはその木片の叫びが聞こえて来るようで…怖い、深いところをグサグサ刺されるような感覚がある。
【種】「人生に関係ない」と「今年は干支だ」は似ている(大笑)。
【萬】どちらも人間のエゴを感じますね(笑)。
「つくったことば」
(スクリーン:資料No.38)「勉強しようとすると、頭のてっぺんが何か南北に強く感ずる、麻痺してしまうみたい」(患者の言葉、若松和哉『セネストパチーの研究』より)
「頭がピンとつっまりような気がし、集中力に欠ける。以前あった思考線(言語新作)が開いて思考の集中が出来ず、額がのっぺらぼうのようだ」(同上)
【春】普通の言葉では言い表しにくいので、苦し紛れに出た言葉と思われる。例えば神社に参詣して急に背中が重たくなったような気がするのを「因縁張り(いんねんばり)」とか表現するような。本質のど真ん中を言い当てたいと思うのだけど、それを表現するには造語するしかなく、そうすると往々にして何を言っているのか分からない場合が多い。
【種】萬斎さんは子供のころから"二重言語生活"でしたよね?(現代語と古語を同時に使っていたということ)「俺、みんなと違う!」とか思いませんでした(笑)?
【萬】ケータイのメールを旧仮名で打っていた。「今日」を「けふ」とか。「なんで"けふ"で変換出来ないんだ?!」と(大笑)。自分は普段から狂言的言語を現代的言語に"翻訳"して、現代人である皆さん(お客)とコミュニケーションを取っているつもり。だから良く、お前の芸はモダンだとか、現代的過ぎるとか言われる(苦笑)。
【種】「このあたりのものでござる」というのが大好きなんだけど、その意味は?
【萬】"We are"でもあり、"私が演じる役は"でもあり、観客と同一であるという意識もある。共有感や近さ。「ここに住んでいる」という意味では無い。なので英訳の"residence"とは違う。
【種】それは凄いことばだ!
【萬】同心円的にみんなを巻き込む言葉だと思う。
【種】&【春】狂言を観ていると真似をしたくなる。真似してみると何だか分からないんだけど嬉しい(笑)。
【萬】コミュニケーションとしての短歌はどうか?昔は連歌の会とか、今でも宮中の歌会とか、その他いろいろな会で催されていると思うが…例えば、患者さん同士が歌を詠んだらどうなると思うか?
【春】実際にやらせてみたいと思っている他の先生はいる。しかし多分思ったより上手くいかないんじゃないか。一見凄いことばが使われていそうで、実はそうでもなかったり。
【種】以前はらい病や結核患者の隔離病院で良く短歌が詠まれていた。当時は不治の病と思われていたので、そういう一種の極限状態の中で短歌が生まれていたという背景もあった。
(スクリーン:資料No.10)「でも、さっきそうおっしゃったじゃねえか!」(会議の席上)
【萬】若い社員さんでしょうか?誰が相手?上司?取引先?
【種】当然発言者の方が目下。「おっしゃった」までは社会的だったが…「じゃねえか!」で"ギザ10"に(笑)。最初から椅子を蹴倒していくのも怖い。かといって最後まで社会的であり続けるのもつらかった、と。
(スクリーン:資料No.11)「この花火はぐろぐろ回ります」(中国製ねずみ花火の注意書き)
【種】「る」の下の丸いところが無くなっただけで凄い表現になってます(笑)。
(スクリーン:春日先生が診た患者さんの絵①。壁に何枚も画用紙を重ねて大きく広げたところに激しい筆致で無数の曲線が描かれている)
【春】最初は英語の筆記体のようなものを描いていた。そのうちに勢いがついてきてめちゃくちゃに。最初は意味らしきものがあったが最後はなくなっている。落ち着かせるつもりで描かせたのだが、逆に興奮してしまった。単なる運動をやっていただけ。形は何かのようだが意味は全くない。結局発散出来ていないと思われる。
(スクリーン:春日先生が診た患者さんの絵②。台所の流しの壁に縦に幾筋もの黒い線と、その左に「呪」などの漢字が書きなぐられている)
【春】この患者さんは長い間部屋に立てこもっていた。縦の黒い筋は描いたものではなくロウソクの煤。その場所にロウソクを灯して、少しずつ位置をずらしていったらしい。「呪」という文字が見えるがそれ自体に意味はあまりない。一見凄そうだけど、暴走族が漢字を使って「かっこいい」と思うようなレベル。こちらが(「呪」という文字とその意味を分かって)勝手に期待してしまうから意味があると思いがち。
【種】文字それ自体や、文字の間違いは怖くないが、送り仮名が違っているのは怖いと感じる。そういう張り紙があったりするとビクッとなる(笑)。そう思いませんか?(【萬】&【春】、ちょっと怪訝そう・苦笑)そのずれ具合が怖い。
【萬】現代における短歌といえば、コピー(キャッチーな言葉)のイメージがあるが?
(スクリーン:資料NO.35)「けれども、君は、永遠じゃない」(パルコのコピー)
【種】これは結局「みんな(いつかは)死ぬ」という意味。「けれども」の前に"今の君は若くて美しい"という前提があって「しかし」永遠ではない、としている。つまり「もっと(思いっきり)生きろ!」と。より消費活動を活性化させる狙い(笑)?短い中にも美しさがある。「みな死ぬ」という絶対的真理、ど真ん中を突いている表現。
【春】その絶対的真理に付随する老いの醜さなどを隠している狡さもある(笑)。
【種】それが'80年代的な時代の輝きだと思う。徹底して前向きな。これが2000年代になると凄まじくリアリズムになって包み隠さなくなる。どちらも時代性とリンクしている。商品を売るというシビアさと自分の想いを(ことばに)託すシビアさを同時に持っていると思う。
【萬】言葉との格闘をしているという意識は?
【種】23才ぐらいの頃はあった。言葉に関しては世界の情報量のあまりの膨大さにクラクラする。なるべく"局地戦"にしているつもりだけど限界は感じている。萬斎さんは子供の頃から稽古をしているから自信がついている?
【萬】「信ずる者は救われる」的に(笑)。型というものを信ずることの拠り所にしているが、その点父はもう解脱していると言える。型が無くなって自在になっている。自分はまだまだ…。
【種】言葉の表現はそういうものに比べると脆い。言語表現に天才なし。テクニックだけでは補えない。現代は言葉が記号化していて、身体性も乏しい。音楽性とのシンクロ率も低い。
【萬】詩や短歌を詠む人達の孤独感みたいなものは今は薄れてる?今ならインターネットですぐ"お友達"が見つかるし(笑)。
【種】自分は実は歯の矯正をしている女性が好きで…探したらmixiにコミュがあった(爆笑)。宮澤賢治の孤独というものに思いをはせると、もし当時に今のように"エスペラント語コミュ"があったら?などとも考える(笑)。しかし(その孤独が解消されていたら)宮澤は宮澤たりえなかったのでは?
(これより質疑応答)
Q1:鰻重の短歌を聞いて。自分も同じような体験をカツ丼でした。仲間内で食事をした時、皆でカツ丼を頼んで、一人分だけご飯だけが入っていた。その瞬間、信頼関係がプツンと切れた気がした。感情のDNAの奥深いところにキズがついた感じ。鰻重の歌を聞いて、そこのキズに触った。そういう感覚を持っている者が、あまたの読者の中にも必ず居るというのを分かっていただけると嬉しい。
Q2:繰り返すと楽しいことばとういうのはありますか?
A2:【萬】「なもうだなもうだ」。踊り念仏。(ここで芸術監督ドノ実演)
【種】ちょっと思いつかない(笑)。
【萬】「うこん」「ちんすこう」とか(笑)。繰り返しただけだとあまり面白くないけど…字として見ると語順を変えたくなる(いきなりナニを言うんだ芸術監督ドノ・大笑)。
【春】「おかいもの、おかいもの」(笑)。
【萬】オノマトペを入れたりしませんか?
【種】自分はあまり入れない。あまり上手じゃない(苦笑)。
Q3:『にほんごであそぼ』で、小さい子供達が難しい言葉を言っているが、どうやって覚えさせ演じさせているのか?
A3:【萬】あの子達はプロなので(笑)。記号的に覚えている。さすがに"味わい"とかを出すのは無理。絵などを見せてシチュエーションを感じさせるようにもしている。
【種】意味の分からないことを繰り返すことの怖さに興味がある。(その言葉に)強い力があるのだけど意味が分からない、というのが好き。そういう点で古典というモノに強い興味があり、それは恐怖の対象でもある。
【春】「反復する」というのは「酩酊」とほぼ同じ。反復するとどこかしら脳内麻薬が出て来る。気持ち良いはず。
【萬】それは『三番叟』が同じ。
【春】ただ、単純に繰り返しているとそこから逃れられなくなることもある。ストーカーなどがそれ。目的ではなく、その行為自体が主になってしまう。
【萬】(古典で)型をすること自体が目的になってしまうのと同じだろうか?
Q4:若い人達の口癖に「普通に…」というのがある。実に気に入らないのだが、「普通に…」という感覚はどのようなところから来ると思うか?
A4:【春】「安心したい」という気持ちでは。例えば一時期"ガングロ"が流行ったが、ガングロ自体は突飛なものでも、ガングロのグループの中では安心出来る。しかしそうと言って、あなりフラットなのはつまらない。「普通に…」というのはそのどっちつかずな状態では。
【萬】自分はずっと自身を「普通でない」と思っていた。今は開き直ってる(笑)。
【種】能楽自体が突飛だと思う。
【春】「特別」と…「変」というのもある(笑)。
【種】萬斎さんは自信に満ち満ちている印象があるが?
【萬】その自信の根拠が分からないと言われる(大笑)。単なる開き直り。普段から無理矢理テンションを上げる練習はしている。(テンションを上げる)スイッチングを植え込まれている。日常的なものは「生(なま)」と言って嫌われる世界。"非日常性=型"。
【種】何となく羨ましい(笑)。自分達とは距離感がある。
【萬】自分はサイボーグだと思っている。良い意味では無いけど…「009」みたいな。
【種】(萬斎さんは)"一人っ子"だよねぇ(笑)。型を打ち破りたいと思うことは?
【萬】既成のものを打ち破りたいとは思う。おもに狂言以外の舞台で。
Q5:自分は春日先生と同世代だが、この世代から見ると、昨今の現代詩等の"若者の表現"には、その表現に到達するまでの内面の葛藤が感じられない。何かを打ち崩そうとか刷新しようとか、根拠や動機を感じない。管理されている印象。表現の岩盤はどこにあるのだろうか。
A5:【萬】自分の場合、伝統という価値観が岩盤だろう。
【春】自分は小さい頃、非常に不安感の強い子供だった。父が保健所で働いていたのだが、ある日職場に連れて行ってもらってそこでレントゲンの機械を見た。機械を移動させる足元のレールを見て、これは「世界一短い鉄道」だと思った。たわいもない例えだが、そういう発見が出来た自分を知って、急に気持ちが楽になった。それから自分にとって「見つける」ということに生きがい・支えが生まれたと思う。
(ここで質疑応答終了。最後にゲストのお二方よりコメント)
【種】舞台ってこんなにまぶしいのか(笑)。言葉の問題は語りつくせない。自分の人生に関わりの無いところに"何か"がある、ということが人生そのものに意味をもたせているのではないか。
【春】ここでのお話も楽しかったが、準備段階で資料を作るのも楽しかった(笑)。
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