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狂言とシェイクスピアの出会い②。

①からの続きです。

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児:1994年のロンドン留学ですが、演劇畑で最初に手を挙げたのが萬斎さんですか?

萬:はい。普通は「何故狂言やる奴がロンドンに行くの?」ってことですけど、それは広くパフォーミング・アーツを学ぶ為ですね。狂言を演じることで、逆にシェイクスピアをイギリス人から教わったなぁと。シェイクスピアを学べば、イギリス人と同じピッチ…分かりますか?サッカーの"ピッチ"と同じですね。つまり"同じ土俵"に立てるんですよ。狂言という古典だけやっていると「ああ、伝統かよ」って感じで受け入れてもらえないんですけど、「シェイクスピアをやるんだ」と言えば「そうか、ならやってみろよ」と興味を持ってもらえるんです。シェイクスピアもある意味"伝統"なんですが、現在は台本と劇場しか残ってないんですよね。でも自分達には面々と伝えて来た"型"があります。何も無いところに身体性のある舞台を組み立てることが出来ます。それは『法螺侍』の時から感じていました。もっと勉強したい、戯曲を解釈して世界観を持つということはどういうことなのか知りたかったんです。

児:「ロンドンでシェイクスピアをやる」ということに思い入れがあったのでしょうか?

萬:日本人に「能狂言とか歌舞伎とか観る?」って訊いてもピンとこない方が多いですよね。「今日、歌舞伎に行く?」なんて誘いもしにくいでしょうしねぇ。萬斎ファンだなんて公言すると変わり者だと思われたりとかねw ロンドンで銀行口座を開こうとした時に「(ロンドンに)何しに来たの?」と訊かれたので「シェイクスピアの勉強に」と答えたら「boring(退屈)」と言われました。こっちでも日本の能狂言に対する反応と同じなんだなぁと思いました。丁度その頃のロンドンではフィジカル系の芝居が台頭してましたね。サイモン・マクバーニのコンプリシテとか、ロベール・ルパージュとか。自分が芸術監督をやっている世田谷パブリックシアターにもコンプリシテを呼んだりしています。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが朗々と語るやり方を守っている一方で、こういうフィジカル系もやっているので両方楽しめました。

児:身体表現と言葉、両方を意識されてますか?

萬:能狂言は「敢えて出さない」というスタンスですから、さっきの『法螺侍』の洗濯籠の件も、洗濯籠を吊るす棒だけを見せるんです。(実演で洗濯籠を棒で担ぐ仕草)こうすると、洗濯籠の中に隠れている人も一緒に動くわけで、籠の中でゴロンゴロン転がってる姿を見せられる。実際にそこにない、見えないものが"見えて"くるという、演劇のお約束のアドバンテージがあるんですね。

児:空間の使い方のノウハウが伝統に中にあるんですね。

萬:イギリスではグローブ座でやらない限り、セットを組んでやる前提です。グローブ座の芸術監督だったマーク・ライランスさんと友達になったので、2001年のグローブ座『まちがいの狂言』が出来る道筋を作ってもらいました。彼は今映画に出てますよね?何だっけ…B…?(正解は『BGF』w)あれもモーション・キャプチャーですよね。

児:河合祥一郎先生は「日本人こそがあのグローブ座の空間を有効に使える」と仰ってました。

萬:はい、自分達の方が圧倒的なアドバンテージがあると思います。約束事を押しつけていかないとこの空間で芝居が成り立ちませんので。イギリス人はこういう空間でどうしたら良いのか迷うでしょうね。

(ここでバック・スクリーンに『まちがいの狂言』の映像を投影。門の内と外で黒草一行と白草一行がやり取りをする場面)

児:こういうのは(門番のシーン)繰り返せばお客さんが学習してついてこられますよね。

萬:人間が門を演じるというのはほとんど聞いたことが無いですけどw『真夏の夜の夢』では人間が壁を演じる場面があるので、シェイクスピアの発想に全く無いわけではないのだと思います。「これは出来ねぇだろ」と思うのがマスク、面の使い方。イタリアの半面からアジア、韓国と伝わって日本に来たのが面です。元々シェイクスピアはイタリアの喜劇に触発されて『間違いの喜劇』を書いたそうですね。これには二組の双子が登場するのですが、本物の双子で無ければ同じ顔にならないところを、面と使うことで"同じに見える"という約束が出来ます。演劇的ウソを面を使って"リアル"に見せてしまうんですね。主人が双子、召使も双子。白草同士・黒草同士なら面をつけませんが、白草と黒草が対面するところではどちらか一方が面をかけます。それで「コミュニケーションが上手くいってない状態」を表現しました。最後、大団円で二組の双子が対面するシーンで役立ちました。「こういうのは出来ねぇだろざまあみろ」とwww面は同じ顔に作れるので、身体は違っても双子に見えますね。

児:「現実にあの面は似てないじゃないか」というリアリズムが入らないで見られる。歌舞伎でも本当にリアルな面を作るとかえって表情が死ぬと言いますよね。

萬:こっちの面も全く同じというわけでは無いですけどね。

児:万作先生と高橋先生が最初、一緒に活動されていたところに萬斎さんが加わったのですか?

萬:『まちがいの狂言』からは自分がメインでした。親父は大人しめの役でw

児:年譜の右側に行くと(2003年以降)河合先生とのお仕事が増えますね。

萬:河合先生は高橋先生の娘さんと結婚されて、もちろん高橋先生の直弟子でいらっしゃるわけですから、そのまま受け継ぐように翻訳を頼みました。さいたま芸術劇場では蜷川(幸雄)さんが松岡和子さんの訳を使ってますね。世田谷パブリックシアターでもう一度『ハムレット』をやりたいなと思って、「シェイクスピアは難解」というのをどう払拭するのかということで、河合先生と一緒に翻訳し直すことになりました。シェイクスピアの"音曲性"を前に出せないかと。日本語に直した時点でもうシェイクスピアでは無いという方もいらっしゃいますが、日本語の五七調のリズムに作り直すことに挑みました。河合先生が訳されたのを自分が音読するのですが、何度徹夜したことかw 家が近いという条件もありまして、自分が舞台を終えてから夜の9時ぐらいから始めて、そのまま2時3時までなんてザラでした。二人ともフラフラになりながらw

児:その2003年上演の『ハムレット』は男優のみで演じられるところが注目されてましたが、歌舞伎の中村しのぶさんも出演されてましたね。

萬:ロンドンで絶賛されてましたね。彼は今元気にやってますか?

児:元気にやってますよ。(しのぶさんの活動状況を述べて頂きましたがメモ取れず…)

萬:彼はロンドンで「スーパー・フェミニン」と評されましたからね。

児:久々にハムレットを演じてみていかがでしたか?

萬:前に演じた時の翻訳がまだ入っていたので、台詞を(今回の翻訳に)変えて入れるのが大変でしたね。(演出の)ジョナサン・ケントは南アフリカ出身だけどロンドンを基盤に活動しているのだけれど(ここでケントの演出の特徴?が語られたのですがメモが落ちました(ーー;)彼にはよく「Speak on the line.」「Talk on the line.」「Act on the line.」と言われました。日本ではまず"腹を決めてから"言葉に出すという台詞術があるのですが、彼はとにかく"台詞ありき"で、それではいけない、喋りながら感情が後からついてくるようにやれと。間を空けて溜めてから言うのではなく、台詞に感情が追いつくようにやらなければならないと言うんです。それを日本語でやるのはかなりキツい。

児:狂言とは違いますか?

萬:似てるところはあるんですけどね。シェイクスピアには沢山の比喩表現が出て来て、それら一つ一つの意味も難しかったりするのだけど、比喩が頭に入った状態で言わないと気持ちがついてこない。そうじゃないと"シェイクスピアに喋らされている"ような感覚になります。でも、気持ちを作ってから長々と喋ると聴いていられなくなります。例えば英語で"I love you."は3音節だけど、日本語に訳すと「私は/あなたを/愛して/います」と4音節になって長くなります。日本語にするとどうしても"伸びる"んです。だから河合先生には「兎に角短くして下さい」と頼みました。日本語は主語が無くても通じるから削ってしまえとか。音節的に"日本語にする"というのはどういうことか。河合先生は僕がどんどん新作を作ればもっと書いて下さるんでしょうけど、最近はなかなかそうもいかなくて、先生が自分からどんどん書かれるようになってますねw

児:その後、『リチャード三世』の翻案である『国盗人』がありました。

萬:シェイクスピアの悪役ですね。親父は「狂言は悲劇です」とか言っちゃうので僕は「えー?」って思っちゃうんですけどw 狂言の手法はもっと色々使えると思います。歴史劇でも悲劇でもね。リチャード三世については、悪いけれどコミカルな奴、(見る者に)共犯性を持たせて事を進めていく奴、という点が自分の中で引っ掛かりました。狂言の武悪の面と似ていますよね。強面だけど人好きがするというか。高橋先生も「『リチャード三世』やりたいなぁ」と仰ってたのですが、残念ながら亡くなられてしまったので河合先生にお願いしました。高橋先生のやり方に倣って、長々しいところは思い切ってバッサリ切ったりしました。シェイクスピアをやる時は毎回、イギリスに持って行けるようにしています。その為にも兎に角早い転換を考えますね。この舞台では橋掛かりを5本使いました。『まちがいの狂言』では橋掛かりが2本、前のシーンが終わって一方の橋掛かりから演者が退場していくと同時に次のシーンの演者がもう一方から出て来てすぐに続きが始められるという利点があります。狂言はほとんど一幕物なので橋掛かりは1本で良いのですけど、シェイクスピアは多幕物だから5本ぐらい必要なんですwこの舞台形状を見たイギリス人が「ユニオンジャックを半分に切ったみたいだ」と言ってましたw (上から見ると本舞台を中心にして5本の橋掛かりが放射状に伸びている形になっている)

(バックスクリーンに『国盗人』映像を投影。悪三郎が自分が謀殺した相手の亡霊の悪夢にうなされるシーン)

児:ここで使われている面はオリジナルですか?

萬:いえ、能面です。石原良子さんという能面作家の方に作って頂きました。舞台が暗めなので闇に沈みこまないようにちょっと色を塗り直してもらいましたけど。着脱も(通常の能面と違って)ワンタッチで出来るようになっています。亡霊を演じる上で、そもそも現代人が亡霊とかを信じてないですから嘘臭く見えてしまうのが難点なんですね。でも能は亡霊を演じる"本職"ですから、そこからどのように描くか。昔は人々がそういうものを信じていましたから恐ろしく感じたと思いますけど、現代人は信じてないから、どう恐ろしく見えるようにするか、ですね。そこで面を使う効果に期待するわけです。面という共通理解を利用する。この芝居では命を落とす人物に能面をあてて"死"を表現したのですが、デスマスクにはかなり威力がありましたね。こういうのも「イギリス人には出来ねぇだろ?」ってw

児:また、良い能面じゃないと出来ないことですよね。

萬:そうですね。浅草の仲見世で売ってるようなのじゃダメですwww

児:この手法を更に推し進めたのが『マクベス』でして、どれだけ人が出て来るのかと思いきやたったの5人w

萬:言わば"スコットランドの大河ドラマ"ですから、そのままやれば凄い人数になります。『国盗人』も人数の関係でイギリスには呼んでもらえません。当然お金もかかるwだったらもう減らすしかないと。僕が惹かれているのは魔女なんです。人間を達観して眺めているし、罠にはめて「しめしめ」と思っている。そういうところが実に狂言的なんです。(自分が)魔女をやっても良いなぁぐらいに思ってましたね。あれだけ沢山いる登場人物で、名前がある人で劇中で意味があるのってどのくらい?って思っちゃったんです。そんなに重要じゃ無いなと思ったら、それはもう魔女が請け負ってやれば良いとなりました。全て魔女が仕組んでやっていることにしてしまえと。

児:結局、マクベス、マクベス夫人、そして3魔女だけが重要だと。

萬:魔女の讒言でマクベスがもがき苦しむのが良く分かる構成になりました。可哀想にも見えるし、ニヤニヤも出来る。

児:簡潔でコンパクト、海外に持って行けるものが出来ましたよね。でも子供向けのダイジェストのようなものではない。ドロドロしたりきらびやかだったり、そういうところがちゃんとありますよね。

萬:高橋先生も、当初は『まちがいの狂言』がどんなものになるのか、疑っていらしたようです。シェイクスピアは"演劇のデパート"とも言われますが、狂言はどちらかと言うと"小ぶりの器"なので、その中にどうやって収めるのか。日本の盆栽と同じ感覚です。ミニマムとマキシマムを同時に見せる。コンパクトにミニマムにして、逆照射して大きく見せるという手法ですね。

(バック・スクリーンに『マクベス』映像を投影。今年の最新版。冒頭の3魔女シーンからマクベスがバンクォーと一緒に初めて魔女の"予言"を受け入れる場面まで)

児:「魔女が世界を作る」というのが良く分かります。布の使い方が上手いですよね。海外に出て行った『マクベス』と言えば蜷川さんの"仏壇マクベス"が有名ですが、蜷川さんのは"足し算"のマクベスだなぁと思います。歌舞伎的で、こちらの"引き算"のマクベスとは対照的です。大変面白い。"足し算"は狂言の美学に反しますか?

萬:そうですね、狂言は省略の美学ですし。蜷川さんは台本通りにやるのがポリシーだったからカットしない。そのままキチンとおやりになります。僕はぶった切りにするけどw それと、狂言に現代性がどこまであるか、というのをこの『マクベス』で示そうとも思っていました。単に『マクベス』をやるのではなくて、現代のゴミや原発の問題、文明社会から浮き上がって来た澱、負の財産みたいなイメージも織り込みました。魔女達が入っていたのは原発事故の処理で除染した土を入れる袋なんです。それが雨に濡れて染み出して、人間に害を為すという構造。人間が利便性を追求し"正の財産"を求めれば、それに付随して必ず"負の財産"も生み出している、というところに社会性を持たせました。"正の財産"というのは"足し算の文化"でもあるわけで、それの追及によって生まれた"負の財産"を背負わされた人々との対比という構造もあります。

児:蜷川さんとの『オイディプス王』の朗誦法に共通性はあるでしょうか?

萬:あれは朗誦法と言うより「パルテノン神殿に向かって叫べ!!」というものでしたね。グローブ座ならお客が千人ぐらいですけど、ギリシャの劇場だと数千人になりますから、それを越えて更にパルテノン神殿に届くようにと言われたら、朗誦というよりは叫びに近い。パッションというか、天に届くように声を出せと。

児:他に蜷川さんからの注文はありましたか?

萬:終盤に目を潰して血まみれで出て来る際に「天に向かって『痛い』と言え」と。身体性としての痛さではなく、天に「痛い」と伝える為の叫びだということで、かなり高音を使いました。それを見た人から「原爆の被害者の『水をくれ』をカタカナで『ミズヲクレ』にしたのと似ている」と言われました。大きな構図・大きな絵柄の中にぶちこまれるので、それを跳ね返すモノを持っていないといけないんです。池袋のメトロポリタンホテルで初めて蜷川さんとお会いした時に、僕をじーっと眺められてw 身体つきや存在感を確認して「これなら大丈夫だろう」と仰って頂きました。数千人の観客を跳ね返せる身体性が無いとダメなんです。それは平幹二朗さんも仰ってました。演劇には感情とメソッド、二つの入口があって、でも行き着くところは一つなんですね。テクニックや型はあるけれど、最終的には感情的な裏打ちが無いといけないんですね。上手い人は"自分の型"というのを持っています。さっきの『国盗人』の白石加代子さんなどはまさにそれで。白石節が炸裂してましたよね。そういう人は"大きな世界"を背負っているんです。

児:狂言のDNAを元にしながらの表現とは?

萬:平さんは西洋歌舞伎的な世界観をお持ちで、僕は能狂言のやり方でどうするか、地道に頑張るしかないんですけどねw歌舞伎は"おどかし"が沢山出来るからやりやすいところはあります。僕らがおどかせるのは面を使う時ぐらいですからね。『マクベス』は寺山修司さんのところ(天井桟敷)の方々にお願いしましたけど、狂言と合わないんじゃないかと心配していたら、これが殊の外相性が良かったのが嬉しかったですね。

児:古典の世界に生まれて、それを極めなければならないという一方で、現代のものや海外のものをやっていく、その一番の動機は何でしょう?

萬:狂言師として生を全うするため、ですね。皆さんも「なんで生きてるの?」と訊かれたらどう答えるでしょうか?狂言という特殊なものの中で生きていく時、それが現代にとって意味を持っているとか必要であるということが僕の中では凄く大事なことなのです。古典を古典だけでやっていく方法もありますが、他と比べて存在意義があるのか気になりますし、自分の力試しもしたいし、狂言と他のものとの共通点を見出したりしたい。狂言やって映画やって、ゴジラや『にほんごであそぼ』もありますけど、最近になってやっとそういう諸々のことがネット状に繋がって来た実感が出て来ました。それを全部やるのが「野村萬斎」なんです。だから「職業・野村萬斎」と言える。去年はフィギュアの羽生結弦選手、今年は『シン・ゴジラ』…さて、来年はどうなるんでしょうねw 羽生選手も声をかけて下さっただけだし、『シン・ゴジラ』も自分からアプローチしたのでは無かったですけど、どちらも何らかのお役に立てたようだったのは嬉しかったです。狂言のDNAを羽生選手やゴジラに伝えられたことになりましたからね。狂言は世界遺産であり、世界遺産ということは皆さんのものなんですよ。知恵の集積という財産です。全部は無理だとしても、「コイツにコナかけたら何か面白いことやってくれそうだ」と思ったら声掛けて下さいw 何かが起こるかも知れないし、起こらないかも知れませんけどw

児:今後の予定はどうなってますか?

萬:今やってるのが醤油と…特茶でw 分かりやすいところだとそんなもんですがw そうそう、来年の1月5日に息子の裕基が『三番叟』を披きます。自分も『三番叟」から狂言の道を目指そうと決意してますから、今まさに稽古でDNAを伝えている真っ最中です。でもブロードウェイなんか見てると(自分達の方が)生ぬるいと思ってしまうこともありますね。あれだけ厳しいオーディションをして、舞台に立てるかどうか分からないという…僕達は確かに稽古はそれなりに厳しいですけど、舞台に立つことは決められていますから。今稽古の真っ最中ですけど、彼なりの努力でやってくれていると思いますので、舞台に足を運んで頂ければと思います。

児:それに、市川猿之助さんと映画で共演されますよね。

萬:はい、来年6月3日だったかな?『花戦さ』という映画が公開になり、それに主演しております。時代は戦国から桃山あたりでしょうか、池坊専好という、華道の中興の祖と言われている方の役をさせていただきました。あの千利休とも友人関係で、豊臣秀吉の圧政に対し、武器では無く"花"をもって戦をする男の物語です。なのでチャンバラはありませんけどw 先日、試写を拝見したのですが、重厚に出来上がってました。ゴジラのように目を楽しませるタイプの作品ではありませんが、主役級が5人集まってます。 普通、これだけ主役級が集まってしまうとまとまりに欠けることが多いですが、これは上手くまとまっています。それから6月から7月にかけて『子午線の祀り』という舞台をやります。演出も僕です。原作の木下順二先生はギリシャ悲劇とシェイクスピアを意識して「平家物語」を読み解いたのだなぁということが良く分かる作品です。シェイクスピアがお好きな方は、ちょっとだけ「平家物語」の源平合戦に目を通して頂ければ充分楽しめるのではないかと思います。僕は平知盛を演じる予定ですが…もしかしたら気が変わったりしてw 昔、ウチの親父が義経を演じたんですよ。でも僕は知盛で…面白いですね。性格が違うからかなw?

(気がつけば終演予定の午後8時を少し回って、最後に児玉先生がまとめをされて、萬斎氏は大きな拍手の中退場。壇上に残った児玉先生が今回の沙翁特別展の開催概要等、アナウンスしてお開きとなりました)

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