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限りなき戦い。

P1000019 『マクベス』千秋楽 
2010年3月20日(土)14:00~ 於:世田谷パブリックシアター
野村萬斎・秋山菜津子・高田恵篤・福士惠二・小林桂太

いよいよ泣いても笑っても楽日ということで前日に"お祭りの用意"を始める。
全く勝手な個人的感覚として
「『マクベス』にはLed Zeppelinが似合う」と決めつけ(笑)、
ダウンロード・サイトにアクセスして全作品の中から10曲余りをピックアップ、
(レコードはほとんど持っているのに
 CDが無いもんだからウォークマンに落とせない・泣)
まぁ要は"神の一曲"としてロック史に燦然と輝く、
「Stairway To Heaven(天国への階段)」をエンドレスで聴き続けて、
三軒茶屋までの道のり、ガシガシと気分を盛り上げようという魂胆だったのが、
そのひとつ前に入力した、
「The Battle Of Evermore(限りなき戦い)」に耳がコロッと転んでしまい、
結局三茶までの道すがらこの曲の方を繰り返すこととなった。
英国トラッド・フォークの歌姫、故・サンディー・デニーがゲスト参加して、
LZのVo.、ロバート・プラントと幻想的なデュエットを披露するこの曲。
中学生の頃から大好きな曲だった。
同じアルバムの中でこの曲から「天国への…」に続く流れは鳥肌モノ。
しかし今日は…ロバートとサンディーの掛け合いが、
まるでマクベス夫妻が歌っているかのように錯覚した。
歌詞の意味はこの際どーでもいい(笑)。
13日の貸切公演、
やっと身も心も寄りそうように見えて来た舞台の二人が、
17日にはまた逆戻り、かなり意気消沈してしまっていた。
なんとか千秋楽には夫婦らしくなってくれ、と、
そんな願いも込めての「The Battle Of Evermore」。
三茶にて某常連さんと合流、腹ごしらえを済ませてSePTへ。
さすが千秋楽、満員+立ち見多数。
まぁ17日も平日のマチネにも関わらず立ち見が出ていたが。

大して意味も無い長い前フリでしたが(苦笑)、
以下、楽日の感想をつらつらと…。

前日に音響トラブルがあったという情報を得ていたので、さすがエゲレスの"お岩さん"、油断出来ないなぁと、とにかく楽日はつつがなく終わるようにと心の中でお祈り(苦笑)。懸念事項はやはりマクベス夫人の表現。13日には本当の意味での夫婦らしさが、悩み惑う夫を必死に励まし最後は許容範囲を超えて壊れてしまう妻の哀れさが完全とは言えないまでも見えていて「これはこれ以降がかなり楽しみ♪」と思っていたところ、17日にまたもや高飛車で夫よりも自己の満足の為に心を砕いているような残念な夫人像が戻って来てしまい、正直かなり失望していた。同日・終演後のレクチャーでは、大変おこがましいけど自分のとほぼ同じような人物解釈をされているということを萬斎師の口から聴けて、「それならどうしてああいう造形になるのか」とただただ首をひねるばかりだった。

「柔らかい歯茎」。少なくとも、一度でも赤ちゃんの口に自分の乳首を含ませたことがある方なら、あの感触は分かるはず。私のようなどうしようもないダメ母でも(苦笑)その瞬間の子供の愛くるしさは知っている。ならば何故、子供を育てた経験のある、柔らかい歯茎の感触のいとおしさを知っているはずのマクベス夫人はあんなに怒ったような表現しか出来ないのか。彼女の腕の中には赤ちゃんの姿の欠片も無い。彼女が子供を育てている姿さえ想像出来ない。役者さん自身が実生活で子持ちかどうかは関係無い。「子持ちで無ければ分からない」というのはかえって差別だと思うし、そう言うなら役者はいつまで経っても自分の等身大以上は表現出来ないという理屈になってしまう。

それほどまでに子供を愛しんでいた彼女だからこそ、「柔らかい歯茎から乳首をもぎ取り、その脳みそを叩きだしてみせます」という怖ろしげな言葉が、それだけ彼女の悲壮な決意を物語っているのであり、あれほど優しい妻がここまでの言葉を放って決意をしている、その姿に夫は妻の犠牲的なまでの愛を確信するのではないかと思うのだけれど。

話は前後するが、夫からの手紙を受け取った夫人が夫の性格について語るシーン。「人情というお乳にあふれすぎて…」のくだりは一見、夫の優柔不断を責めている風に取れなくもないが、レクチャーにて萬斎師が述べた、マクベスも夫人も特別な人間では無い、普通の人なのだという解釈に沿えば、ここでの夫人による夫の"性格分析"はひとえに彼が、それこそ今舞台を観ているお客さん一人一人と大差無い(武勇については別だが・笑)、大きなことを前にして悩みもするし苦しみもする普通の人間であることをハッキリと示していないだろうか。ここでの優柔不断は決して純粋な欠点・汚点では無く、そういう普通の人間だからこそ、これから自分達が引き起こそうとしている大罪に耐えられるだろうかと、ひたすら夫を心配する妻の姿が見えても良いと思うのだが。しかし実際の舞台上では夫の"優柔不断"を肩で風切りさっそうと闊歩して口汚く吐き捨て"断罪"するかのような妻の姿。コレには正直ドン引き。何故もっと心の底から心配してあげないのか。

思うに、男性サイドから見るとこういう風に高飛車に叱咤?してくれる女性はかえって非常に魅力的に思えるのかも知れない(苦笑)。そういう叱咤?を深い愛情と解釈していると言われればそれ以上コチラも何も言えないのだけれど(泣笑)、どうも自分にはそういうマクベス夫人の姿が、彼女というキャラクターについて昔からめんめんと続いている典型的な悪女キャラの型押しにしか見えないのだ。夫よりも何よりも、自分の利益が一番大切なだけの。

だから、いざ夫人が狂乱の体になった時に納得がいかなくなる。普通の、決して強くも悪賢くも無い女性が自分の許容範囲を遥かに超える罪を背負ってしまったなら、まさに「プッツリ」と張りつめた糸が切れるように精神に異常をきたしてしまうというのは容易に想像出来るのに。それに、狂乱シーンの冒頭にて「ファイフの領主には妻がいた。今はどこ?」という台詞が"残されて"いるが、謀反を起こしそうなマクダフに刺客を向けて一族郎党皆殺しにするシーンが削られている(マクベスの口から計画が語られるだけ)のにも関わらずこれを言わせているというのは、夫人がこのマクダフ妻子殺害にとてつもない衝撃を受けている…コレが全てではないが狂乱の原因の"最後の一鎚"はこの妻子殺害であることを示していないだろうか。

"削った"のに"残って"いる。ここに今回の上演台本のひとつのひずみのようなものがあるような気がしてならない。ただこれは、もしマクベス夫人が最初から、演出家の解釈と齟齬を起こしているようにしか見えない型押し悪女の造形では無く、普通の、夫を心から愛しているだけのか弱い女性(という言い方は誤解を招くと思うが敢えて使う)として舞台に立っていたなら、"残した部分"だけからでもその狂乱の理由に思いをはせ、そこから夫の変わり果てた姿(心)の怖ろしさ、一心同体・一卵性双生児的夫婦の哀しい乖離をひしと感じることが出来るように思えるのだけれど。

何の罪も無い母子が、あれほど愛していた自分の夫の手によって無残に葬られる。乳飲み子の愛らしい記憶を持ち子に注ぐ愛情の深い甘さを知り、王に揺るがない忠誠を誓っていた武勲に溢れる優しい夫を心の底から愛していた彼女にとって、コレが地獄の責苦・身も心もズタズタに切り刻む悪夢と言わずして一体何だと言うのだろう。狂って当たり前なのだ、"そのような"女性ならば。"マクベス家"と"マクダフ家"が合わせ鏡のような関係であるとも想像出来る。夫による母子惨殺は、そっくり自分の身に投影されたように思えたかも知れない。具体的なシーンは削って、マクベス夫人の言葉は残した。勝手な想像と言われればそれまでだが、ここに大きな引っ掛かりを感じる。

(余談になるが、さるお方のブログにて「あの夫婦は本当は愛し合ってないんじゃないか」という感想が上がっていたがコレを私は笑えない。特に予備知識も無く、まっさらな気持ちで舞台を観たらそういう感想も必ずあり得ると思えたからだ。本当に笑えない…)

何だか酔っぱらいの繰り事のような話を続けてしまったが(苦笑)、さてこの千秋楽、前半の夫人はやはり上記のような姿にしか見えなかった。「結局何も変わらなかったか」と脱力感もあり、前半は妙に醒めた目で物語の推移を見守っているような状態の鑑賞になった。しかし中盤、微妙にではあるが何かが変わって行くように見えた。萬斎師のマクベスは公演日程の比較的早い時期から「出来あがって」いて、いわゆる"萬斎節"はそこかしこで健在だったが(これを嫌う方々も決して少なくない・笑)全体的にナチュラルに現代劇の中に溶け込み、マクベスという"生きた"キャラがしっかりと立ち上がっていた。それが千秋楽、遂にビッグバンを起こしたと言うべきか(笑)…亡霊バンクォー出現で大混乱になった後、そこまで怯えていたマクベスが夫人を前に「血の川に浸りきったら今更引き返せない」と、まるで夫人を振り落とすように"一線を越える"瞬間を観て、ぞーーーっと全身が総毛立つのを感じた。

転落しながら、黒い雪だるまのようにドロリとした空気でマクベスが覆われていく。夫人が置いてけぼりになる。今までに無かった夫人の小さな姿。この時、マクベス夫人はしっかりと夫の姿を「見て」いた。全く別の人格に生まれ変わってしまったかのような夫との乖離。狂い舞いを始める夫、置き去りになる妻。この不吉で哀しい構図。

ビッグバンに引っ張られたのかなとも思った。多分13日もここまででは無いにせよ(何せビッグバンの御本尊さえそこまで行ってない・苦笑)、自分が思い込んでベッタリとくっつけた"マクベス夫人の型"が外れかかって自然な姿に近くなっていたのだと思う。半ば強引に(?・笑)主役ワールドに引っ張り込まれた怪我の功名と言ったら失礼だろうか(苦笑)。よって、上記の「ファイフの領主には…」発言の座りの悪さは前半の停滞の所為で残ってしまったけれど、狂乱のシーンは今まで以上に憐れさが増していた。

この変化は3魔女のスリーアミーゴスにまで及んだ。当初はその身体性に目を見張ることはあったものの、他のキャラとの演じ分けの点などでどうもすっきりしないモヤモヤ感を感じてしまう鑑賞ばかりだったが、この日は"アチラの世界の住人"の薄気味悪さ(←褒めてます・笑)をこれでもかというばかりに放出して舞台を"演出"していた。彼らの仕草は全編を通じてコミカルな印象が強いが、その奥に潜む何とも言えぬ気持ちの悪いズレ・この現世と相容れぬ異界感(これがさりげなく出されている方がより気持ち悪く見えるから面白い)が見えて来たことによって、3人の存在感は今まで以上にぐんとグレードアップしたように思えた。

お恥ずかしい話だが、私は17日の萬斎師のレクチャーを聴くまで、石をコンコン叩きながら卑猥な歌を歌っているのは門番で、狂乱のマクベス夫人を嘲り笑うのは遠巻きに情勢を見ている庶民達だと思い込んでいた。勘違いはただ恥ずかしい限りだが、魔女達がそういう人達に身をやつして、夫婦の転落を演出し観察しているという見方も出来るのかなと今は思う。あの妙に神経に触る異界感が備わったからこそ、そのように見えても面白いと思えるのだし、コミカルでありながら気持ちが悪く、白髪を垂らして鉤鼻をつけ箒に跨らなくても(笑)それより遥かに魔女らしく見えた。ラスト、バラバラのマクベスの遺体の下に白い花を見つけた3人の表情・佇まいが実に印象的だった。人間によって片隅に追いやられた"ゴミ・破壊された自然"の化身として復讐が成り立った達成感どころではなく、森羅万象に抗い敗れ塵介となって土に還ったマクベスへの静かな弔いと、それでもまた四季は何事も無かったかのように移ろっていく無常観を強く感じさせた。自分の中にぐっとこみあげるものがあった。

そしてマクベス。上記のマクベス夫人と3魔女の変化はこの千秋楽での"大魔王出現(笑)"による力技で強引に引き寄せられた感が強い。だから正直に言えば、このお芝居が抱えている問題は実はほとんど解決してはいないと自分は思っている。しかし、ここが毎日変化して"生きている"お芝居というものの不思議さ・面白さで、何かのはずみで問題も矛盾も不都合もいっしょくたに丸めこんで"場"が出来あがってしまうことがある。役者の舞台上の在り方が、戯曲や演出を越えて見事に立ち上がる。ウォークマンを聴きながらテンションを上げて三茶に乗り込んだ自分であるが、前半の重苦しさにそのテンションも一時すっかり鳴りをひそめてしまい、いわゆる「楽日の特別な高揚感」が芝居の見方に影響を与えたとは思っていない。自分は17日以降、18日19日の舞台は拝見していないが、そこでの彼らはどうだったのか素直に知りたい。既に"大魔王"は出現していたのか(笑)またはその片鱗ぐらいは見せていたのか。これもまた自分の感覚だから他人様に尋ねたところでどうにもならないとは分かっているのだけれど(苦笑)。

「トゥモロー・スピーチ」の静かな中の壮絶さも今までの中で最高だった。もちろんご本人がこれで完全に満足しているとは到底思わないが(笑)、一度パチンとはじけて"向こう側"にすっ飛んだ時のこのお方の破壊力は並大抵ではない。私は一度、『オイディプス王』再演を観に行った際に「当てられて」エライ目に遭っているのだが(今回、その時にお世話になった某常連さんと偶然に席が隣同士だったというのがまた何とも・苦笑)、今回も吸い寄せられ過ぎてスピーチの途中辺りからいささか具合が悪くなり(退席するほどでは無かったが)、カテコでスタオベはさせてもらったものの(そうでもしなきゃいたたまれないというのもあった)、客電が点いた後もしばらく手や足の震えが止まらなくてまたもや某常連さんにご迷惑をおかけしてしまった(泣)。これは単に主役のパワーだけではない。引っ張られたにせよ何にせよ、マクベス夫人も、3魔女も、一つの大きなカタマリとなって舞台を祭祀の場に塗り替えていたからだ。たまたまだろうが思い込みだろうが(笑)何だろうが、そういう場を観られたのは嬉しい事この上ない。

この何だか無計画に長い(苦笑)感想文の前半を大きく使って、私はマクベス夫人=秋山さんに対する払拭し難い違和感を敢えて(独りよがりではあるかも知れないけど)細かめに書かせていただいた。2年前の蜷川舞台『わが魂は輝く水なり』以来の共演で、その際にもざっと調べさせていただいたが大変ファンの多い、実力派の称号を得られた女優さんであることを知った。しかし『わが魂は…』の時も今回の『マクベス』の前哨戦であったリーディングの時もそうだったのだが、どうも"強い女"という鋼鉄製の仮面が頑固に張り付いて、『わが魂は…』の巴、『マクベス』のマクベス夫人という、確かに表面上はキツい女性と一言で言えてしまいそうな、しかしその奥には複雑な感情が渦巻いている人間の表現パターンがかなり画一的になってしまっているように見えて仕方が無かった。今回のマクベス夫人では、夫と相対する時も、家来や侍女に接する時も、それこそ夫の"上司"であり殺戮のターゲットであるダンカン王に対してでも、どのようなシチュエーションでも佇まいに大差が無い。生きて流動する、相対する人間のキャラクターに対応して、その時々の感情の流れがナチュラルに現れて来ない。確かに情熱的で恰好良いのかも知れない。しかしそれでは、生きて揺れ動く人間は表現出来ない。

「観劇シロウトが何をほざくか」とお叱りを受けてしまうかも知れない。ファンの方も沢山いらっしゃるので、多くの方にとって不快な文を綴っているのだろうという自覚はちゃんと持っている。しかし、極論してしまえばこの『マクベス』の真の主人公はマクベス夫人とも言える。夫のように暗黒面に堕ちられず、身の丈に合わない大罪の片棒を担いでその重みに息も絶え絶えに耐えながら、最後は力尽き果て散って行く様は夫の悲劇よりもより悲劇ではないだろうか。その大役を担った以上、舞台をコントロールするのは主人公俳優の伝家の宝刀"臨時波動砲(笑)"ではなく、生きた人間としての悲劇を一身に背負ったマクベス夫人であるべきだと、私は思ってしまうのだが。

大変僭越な言い方で申し訳ないのだが、それだけ私は"秋山マクベス夫人"に大きな期待をかけているのである。13日貸切公演とこの千秋楽、満足出来る程では無いとは言え、少なくともこの2回の公演では悲劇の夫婦の自然な姿が浮かび上がっていた。再演(やれるならば海外公演)を視野に入れているという萬斎師の言葉を聴いて、私は躊躇なく、秋山さんに是非もう一度マクベス夫人を演じてもらいたいと思った。もちろん異形のスリーアミーゴスも同様に(笑)。萬斎師が英国留学時代から温めていた構想がこの"五重奏"によっていよいよ組曲を奏で始めたわけだが、無論これで完成では無い。舞台装置に関してはもうこれ以上何処を変えようかと思うほど完成された美しさがあるが(それでも演出家ドノはまだ弄るだろうが・笑)、マンファクターとそれを彩る演出はまだまだどんどん変化していくだろう。まさに"The Battle Of Evermore"。

紅葉と雪の舞いしきる中、滅びへのベルトコンベアーを逆走するマクベスの背後に流れるSEのその向こうに、私は「The Battle Of Evermore」のヴォーカルのリフレインを脳内で重ねて聴いていた。必ずもう一度お会い致しましょう…自分が海外に行くのは無理だと思うけど(泣笑)。

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