MANSAI◎解体新書 その拾四 「ひとがた(人形)」~自己と他者のディスタンス~。
2009年2月24日(火)19:00~ 於:世田谷パブリックシアター
企画・出演:野村萬斎(世田谷パブリックシアター芸術監督)
出演:桐竹勘十郎(人形浄瑠璃文楽座・人形遣い)
福岡伸一(青山学院大学理工学部科学・生命科学科教授)
スペシャルゲスト(!):豊竹咲甫太夫・鶴澤清介
舞台上には椅子が3脚、向かって左後方に文楽の人形が3体立てられています。時間になり芸術監督ドノがいつものように舞台奥の階段から登場。今回は"解体ルック"ではなく紫の紋付に袴姿。後ほど、このいでたちの意味が分かることに。
いつものイントロダクション"解体新書とは何か"の後、本日のゲスト入場。桐竹勘十郎さんは黒子の衣装、福岡先生はスーツ姿。
(毎度のことですが、以下はお三方が語られた通りの言葉ではありません。微妙にズレや受け取り側の勘違いが含まれる可能性大なので、今回もそのあたりご了承の上でお読みいただければ幸いです)
以下、芸術監督ドノは「萬」、桐竹さんは「桐」、福岡先生は「福」で表示致します。
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萬:「人形」と書いて「にんぎょう」とも「ひとがた」とも読むがその違いは?
桐:「ひとがた」というと紙っぽい。昔、陰陽師が使ったあれを思い浮かべる(笑)。人間の身代わりとして、厄を乗り移らせるもの。「にんぎょう」は丸い頭と手足。中身が詰まっている。
福:陰陽師の前に(と言いながら芸術監督を見る・笑)生物学者が居るというのは(笑)。(「人形」を通して)生物が「生きている」というのはどういうことか?どこを見て「生きている」と思うのか?を考えていきたい。
萬:「ひとがた」や「にんぎょう」は生きていないモノ。
福:(個別に存在するのではなく)互いに"関わらない"と「生きてこない」。人間も同じ。人間は細胞レベルまで細かくバラしていくと「モノ」になる。細胞については、2003年の時点でヒトゲノムの解析が全て終わってしまっている。「モノ」としての細胞は研究し尽くされてしまった。これには大変失望(笑)。自分は子供の頃にも一度失望を味わっている。昆虫大好き少年だったが、遂に新種の昆虫を見つけることが出来なかった(笑)。これ以上新しい遺伝や細胞の発見は無いと思われるが、ならばその「モノ」としての細胞一つ一つではなく、それら同士がどのように繋がって"成り立って"いるのか、その関係性が今現在の研究対象。
萬:その「モノ」にどうやって命を吹き込んでいくのか。祖母が亡くなった時、その姿を見て「あ、"モノ"になってしまった」と痛感した。"モノ"に命を吹き込むという発想はいつ頃からあったのか?その最たるものが人形だと思うが、人形で人間の"代償行為"をするというのはいつ頃から?
桐:原初は指人形のような小さいもの。1000年ぐらい前から人形を扱うことを芸能とするようになった。傀儡(くぐつ)師という。首から箱のような(ミニチュア)舞台を下げて人形劇をやっていたらしい。
萬:演劇の世界・能狂言では面(おもて)…仮面をつける。仮面をつけることによって"他者的存在"になる。能の『鉄輪(かなわ)』では丑の時参りをする際に顔を赤く塗って「ヒトではなくなる」姿がある。ギリシャ悲劇に至っては紀元前から仮面の存在がある。対して人形は自分の代償のような存在?人形劇は(人形を使って)より人間らしさを追及しているように見える。それこそ能に代表される仮面劇の方が、人間性を消して人形に近付いているような?
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(舞台後方に立てかけられている、衣装を着ていない骨組だけの文楽人形を示して)
桐:これで、実際に人形をどのように動かしているか実演します。この(何も着ていない)人形はガイコツと呼んでいる(笑)。
(ガイコツは頭(カシラ)と胴体、手足が胴体と糸で繋がっている。更に人形遣いが2名登場、桐竹さんと共にガイコツを動かす)
桐:主(おも)遣いは頭と右手、足遣いは両足、左遣いは左手を担当する。こういう動作は1700年代に大阪で考案された。(←「17●●年」とはっきりとした数字を仰ってましたが残念ながら聴き取れず。上演された場所の名前もあがっていたような)
福:一つ一つの身体のパーツが糸で繋がっている。バラバラだと(動きが)成り立たない。
桐:パーツが繋がっていないと、一緒に動かしている仲間に伝わらない。
萬:(人間でいうところの)神経のようなもの。
福:人間は60兆個の細胞で出来ているが、その細胞一つ一つは"自分一人では"何も決められない。"他者"がいなければ自分の行動を限定出来ない。"自分"の事は"他者"が決めている。これは(人形のパーツが)糸で繋がっているのと同じ。
桐:ある一方向に「行く」力が有れば、その反対側に「引く」力が有る。3人で人形を動かしているということは互いに"行き過ぎ"を牽制し合うこと。3人で全部の神経になっている。
福:互いにコントロールしながら(動きを)統合している。これが「動的平衡」。生物をパーツの部分部分として見てしまうとこの関係が見えてこない。
萬:(両手を広げて2003年『ハムレット』ポスターのようなポーズを取り)止まっているのではなく、前から引っ張られる力と後ろから引っ張られる力が均衡している状態。
(続いて、やや年かさの女風の人形を使って実演。渋いストライプの着物)
桐:女の場合、足のパーツは使わない。着物の中に入れた手の指使いだけで、あたかも足があるような動きに見せる。これだと女性の柔らかさが出る。
萬:(歩く姿が)しゃなりしゃなりという感じ(笑)。(←芸術監督ドノ、立って実演・笑)
桐:丸みを帯びた動き。"角(かど)"をつけない。
萬:(人形の頭の動きを見て)頭を動かさないで歩くとどうなるか?(自ら実演)…なんだかイッちゃってる人のような感じ(笑)。しかしこの動きは能のそれと似ている。
桐:お尻を動かさないようにするのがポイント。そうすると動きが安定する。
(続いて、おかめのような風貌の若娘の人形を使って実演。風貌はアレですが(笑)真っ赤な着物が娘らしく実に可愛い!)
桐:これは「釣女(つりおんな)」。醜女ちゃんです(笑)。(芸術監督ドノの「狂言からですよね?」の問いに)そうです、狂言の『釣針』からのもの。これは女ですが足が付いている。
萬:(乙の面を手にしながら)こちらが狂言で使う醜女ちゃん(笑)。おでことほっぺが極端に前に出ている。(面を着け、乙の動きを実演)
桐:(人形と)動きがとても似ていますね(笑)。
(文楽『釣女』より、太郎冠者を追いかける釣女の場面を実演)
萬:これだけの複雑な動きを、3人でどうやって伝えているのか?
桐:(3人で実演しながら)足遣いは主使いの脇腹に自分の身体を当てて、主遣いの動きを直接感じることによって自分の動きを決めている。左遣いは、頭と右手の角度、頭の目線で動きを感じ取る。物凄く神経を使います(苦笑)。
萬:(人形の顔を見ながら)口元から何か出てますが…。
桐:「口針(くちばり)」といって、何かを口に咥える仕草をする時に、この針に袖などを引っ掛けるようになっている(実演)。
萬:…人形とChu♪すると流血ですね(笑)。
萬:(椅子に座り両手を頭の上に上げ、両足を床から浮かせてグルグル回す。ちと可愛い・笑)今の釣女の動きはこういう風に見えるんですが(笑)。頭と、手足の先端だけが見えているが、そこ以外は衣装に隠れていて見えない。そこは想像するのか?
萬:(武悪面を着け、例のインディアン酋長のような赤い鬘と厚板で「鬼」を実演)こうやって装束に身を包んで、身体の線という情報を隠している。痩せている自分でも大きな身体の鬼に見える(笑)。基本的に情報を減らすことによって、お客さんに想像させる効果。
桐:敢えて人形の衣装を取ってしまって、ガイコツだけでどれくらいやれるか試してみたい。
福:人形+3人だが、実は「4人いる」のと同じ。人形も人形遣いも一つに繋がっている。細胞同士が繋がりあって「生物が生きている」と言えるのと同じ。「動的平衡」は生命が生命たる姿であると言える。
福:受精卵が1つが2つ、2つが4つ…というように分裂していって、ちょうど100ぐらいに分かれたところで、細胞同士が繋がっていた部分を切り離し、一つ一つを別々にシャーレに入れて培養すると、みな死に絶えてしまう。細胞同士の繋がりを絶たれているので、個々の細胞が自分の役割"を分かっていない。たとえば"ES細胞"は、それこそサッカーの中田選手のように(笑)"永遠の自分探し"をしている。これはガン細胞もそうで、自分探しをしているガン細胞に「お前はこれこれこうしなさい」と指示を与えれば、それはもうガン細胞ではなくなる。"他"と繋がっていることで自分が"何をすべきか"が分かって来る。「他者が自己を決める」ということ。
(このES細胞やガン細胞云々の話題がいまいちよく分からず、この方面畑にいらっしゃる当サイトの常連さんに助け船を求めたところ、ありがたいことに説明していただけました。こちらで編集して補足として載せておきたいと思います。「こんなの知ってて当たり前」という方は華麗にスルーでお願い致します・苦笑…転載事後承諾で申し訳ございません)
【がん細胞は未分化であり、どの臓器の何の細胞にもなりえてない。例えば、扁平上皮とか移行上皮といった細胞が尿には出てくるが、その形や種類によって尿路の中のどこにあるかが大体見れば分かる。しかし、がん細胞というのは異型細胞。扁平上皮であってもどこかの形が崩れている。通常は核が異常に大きいとかいくつもあるとか。いわゆる奇形といった方が良いかも知れない。
分化した細胞は役割を心得ていて、余計な増殖をしたりむちゃくちゃな動きはしない。しかし、がん細胞はその逆。体の中を動き回り、いわば自分の落ち着き先を探しているようにも、確かに思える面はある。だからがん細胞を矯正することが出来れば、つまり本来の分化した細胞にすることが出来れば、そういう人間の命に関わるような動きはしなくなる。細胞本来の命に戻るということなのではないかと思う。
がん細胞の自分探しというのも、やはりそういうことなのでは。未分化ということ、何にでもなれる細胞ということで似ているようなのが万能細胞といわれるES細胞だが、こちらはコントロール下に置かれ、計画的に実験室の中で目的の細胞になっていくというようなものといえると思う。
未分化でなんにでもなれる細胞の代表は通常で言えば生殖細胞。ただしこちらはやはり遺伝子に組み込まれたプログラムどおり、細胞分裂の過程て目的の細胞に分化して行って一個の人間の個体を作り上げる。
未分化のまま無限増殖を続けるのががん細胞(実験用のウイルスを生やしたりするのに使われる培養細胞は実はがん細胞があったりする。無限増殖の機能を生かして何度も継代されている。本体の人間は多分何年も何十年かも知れませんが前になくなっているはずなのだが)、コントロール下で人間にプログラムを与えられて目的のものに分化していくのがES細胞。
がん細胞の中で一番たちが悪いのがずばり未分化がんといわれるもの。未分化であり未成熟。だから非常に脆弱でまともな細胞にはなれないのに増殖力だけは強い。扁平上皮がんとか腺がんとか、もともとも分化した細胞がプログラムバグによってまともな細胞として完成出来なくなったものの方が、少しは扱いやすい部分もあると思われる。】
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桐:人形遣いは足使いが基本。とにかく腰を落とす。3人がただ立って人形を動かしているだけでは何も感じない。その役の"性根(←「しょうね」としか聞こえなかったので・苦笑)"を掴んでいるか。3人が1/3ずつの仕事をしているのでもない。3人で100より120のものを創ろうとしている。
福:足が無くても「足が使える」。中島敦の『名人伝』と同じ(笑)。"不射の射"に弓という物質の意味は無い。(足が無くても足が使える、とは)物質ではなく"効果"としての足がある、ということ。3人と人形は、一つのシステムとして成立している。
萬:演じる人間は客観的に役を見ているが?文楽にもそのような"離見の見"はあるのか?
桐:客観的に見られないと人形は動かせない。醒めた目で見ている。黒子は舞台上からだんだん「見えなくなる」ように。
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いよいよ『義経千本桜』実演へ。ここでサプライズ・ゲスト!浄瑠璃・豊竹咲甫太夫さんと三味線・鶴澤清介さん登場に会場がざわっと。『にほんごであそぼ』レギュラーメンバーが舞台上に3名(笑)。
《義経千本桜 渡海屋・大物浦の段》
【船で九州を目指す義経一行は摂津国大物浦の船宿に滞在していた。宿の主人・銀平は義経の追っ手を追い払うが、それは義経達を信用させて油断させる為だった。義経一行が再び出航すると、銀平は実は壇ノ浦の合戦で死んだはずの平知盛であることを明かす。知盛は亡霊の様に見える白衣装を身に纏って義経一行を追っていく。宿の娘お安は安徳帝、女房おりうは乳母の典侍局。二人とも本当の姿を現わして、知盛と義経の戦いを見守る。】
(演目の説明は咲甫太夫さん。その間、桐竹さんは舞台袖で準備をしています。最初「知盛の幽霊」と仰っていたので、普通に能と同じように知盛の亡霊が出て来るのかと思って聞いていたら「幽霊に化けている・見せかけている」ということだった。同じく海に沈んだはずの安徳帝も、商人の子供に身をやつして生きながらえている。確か大河ドラマ『義経』でも、安徳帝に身代わりを立てて、真の安徳帝は壇ノ浦後、建礼門院徳子と共に仏門に入っていたという設定があったはず。知盛は生きてはいませんでしたが。そんな事を思い出しながら…)
(セットも何も無い裸舞台の上で、人形遣いと共に縦横無尽に舞う"知盛"。客電が落とされ、ピンスポットで知盛の白装束が光り輝くように浮かび上がります。文楽を(正式な形では無いにせよ)生で観たのはこれが初めて。TVの舞台中継では何度か見かけていますが、普通の文楽舞台では人形遣いの下半身が見えないので(そうではないものもあるかも知れませんが何せそれほど見ていないので…)、全身が見えるこのSePT舞台では、また別の種類のパフォーマンスに見えないこともない。ありきたりな表現ですが、本当に「人形が生きているよう」。意志を持った一個の生命体として舞い戦っている。咲甫太夫さんの謡の中に一部、どこかで聞いたようなフレーズが。確か能『船弁慶』の後場だったか?)
萬:(スポットライトの効果だけではなく)人形が舞台に浮かびあがって見えた。形としては確かに人形だけども、命をふきこまれているのを強く感じた。
桐:(まだ少し息が上がった状態で)スポットライトの下で動かすのは難しい!黒子の衣装なので周囲がかなり見づらい(苦笑)。
(ここで、人形を使わず人形遣いの動きだけで同じ《大物浦の段》を演じる実験。エア・ギターならぬエア人形・笑。知盛の長刀のみ使い、主遣いの頭を持つ手には白手袋を着けて"頭のつもり"とします。人形遣いの指先が見えているポイントが、ちょうど"見えない人形"の手足の先に見える感じ。これが意外とちゃんと本物の人形に見える。黒子の身体が透けて見えている空間に"見えない人形"の身体を想像で補って見ている自分。)
萬:3人というより、一つの生命体のような動きだった。
福:見ていて、花粉症のことを思い出した(笑)。本来、花粉症は花粉と身体の"要らない"バトル。身体を形成している細胞が"外からの刺激(=花粉)"によって「自分の役割(=花粉を排除する)」を確立していることで起こる症状。この花粉症の事例から、自分は「自己」と「他者」とは何かと考えてしまう。ここでは「免疫」と「外界から来るモノ」。文楽ならば人形(=自分)は他者(=人形遣い)によって動きを定められる。「自分」とは何か。「相手」とは何なのか。
福:免疫細胞は、一人の人間が生まれ落ちた時点で100万あると言われているが、それら一つ一つは"自分と出会った"時に死滅してしまう。"他者と出会った"細胞は生き残る。それは"他者と繋がっている"ということ。
萬:(人形無しの実験について)自分で(存在しない人形の動きを)シミュレーションしながら行っているように見える。テンションが無い(人形自体のの重みやパーツを繋げる糸)ところで演じるのは感覚的に大変そう。
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(「アンケートでご要望がありましたので、ここで一旦休憩を入れます」と芸術監督ドノ。解体新書14回の歴史の中で休憩が入ったのは初めてです・笑。約15分ほど)
(休憩後、第2部では解体新書恒例の、ゲストと芸術監督ドノのコラボ・パフォーマンス。今回は『景清』の有名な"錣(しころ)引き"から。ここで"共演"する男の人形が運ばれてきますが、まるで子供を抱っこするように肩と膝の下に腕を入れて抱きかかえられて来る姿、思わず客席から「可愛い!」と笑い声が飛ぶ。この人形が、紫の紋付に袴姿(頭は丁髷)。芸術監督が何故今回、いつもの解体ルックではなかったのかは、この人形と"お揃い"にするためでした・笑)
(まずは人形振りだけの『景清』。人形は景清と三保谷四郎の二役。続いて芸術監督ドノとの"お揃い衣装"コラボ。前半は芸術監督ソロで小舞『景清』。後半は芸術監督ドノが景清、人形が三保谷四郎になって共演します。人形の持っている小さな舞扇を兜の錣に見立てて、それを芸術監督景清が後ろから引っ張るアクションが印象的。かなり大昔に、NHKの若者向け音楽番組でこのような人間と人形のコラボを見たことがあるような無いような…その時はセット有りで『曽根崎心中』だったような記憶はあるんですが)
萬:(コラボを舞い終えて)実はお昼に一回打ち合わせをしただけ。上手くいってたでしょうか?この為だけに紫の紋付を揃えました(笑)。
桐:非常に難しかった(苦笑)。萬斎さんの役が女形の方がやりやすかったかも知れない。
(「このコラボについて何か御感想があったらどうぞ」と芸術監督ドノから客席に向かって呼びかけ。ややあって男性の方が挙手)
感想:人形だけだとパロディっぽく見えた。カリカチュア的とも言っても良いだろうか。人間が入ると急に生々しくなる感じがあった。人間と人形と、"虚構"の意味が違うのだろうか?違和感のようなものも感じました。
萬:人間と人形の抽象度の違いから来る違和感だろうか?
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福:(コラボを見て)とにかく「萬斎さんかっこいいな」と(笑)。自分がココであれこれ学術的説明をするより、このパフォーマンスを見ていただければ、この中に生物学が学ぶべき全てがあるように感じた。これぞ「動的平衡」。絶え間なく動いているのにバランスが取れている。個々の要素が見えない糸で引っ張り合っている。個々を分けても分けても、繋がりを考えない限り世界は分からない。
萬:文楽で新作を入れていこうということは?
桐:新作をやっても、古典というものが非常に良く出来上がっているのでそれを超えるものは出来ないんじゃないかとは思う。それでも、今でしか出来ない事には挑戦して行きたい。8月にシェイクスピアの『テンペスト』をやる予定。
萬:文楽でしか出来ないシェイクスピアを見てみたい。文楽という虚構の中だと、『テンペスト』などのバックグラウンドにある"魔法の世界"がリアルに見えるのではないか。
桐:文楽には喜劇的なものがあまり無い。井上ひさしさんの戯曲などもやってみたいと思っている。
萬:喜劇をするなら是非古典狂言からどうぞ(笑)。
桐:『ゲゲゲの鬼太郎』とかも興味あるけど怖いのはちょっと(笑)…。
萬:SePTでやりませんか?
桐:嬉しいですが2年先まで一杯なんでしょ(笑)?
萬:何でご存じなんですか(苦笑)。でもそこは何とかスケジュールこじ開けてどうにかしますから…あ、あまりこういうこと言うと事務局から怒られる(笑)。
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(ここで満場の拍手に送られてゲストのお二人退場)
萬:(これ以降の解体新書シリーズの予定などインフォメーションの後)昨今不景気ですがこういう状況で一番先に割りを食うのは我々です(苦笑)。何かとストレスの多い世の中ですが、心のバランスを保つために是非演劇をご覧になっていただければと思います。





























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